school 生命を理解し,生命に学ぶ新しい情報通信技術
これまで,情報通信システムは,利用状況や動作環境,また,起こりうる変化や障害などを予測し,その予測のもとで最適に動作するように設計,構築,制御されてきました.しかし,インターネットの発展,情報通信機器の高度化,普及,さらには可搬性,移動性の向上にともなって,情報通信システムは年々複雑化,大規模化し続けており,そのため,設計時には予想しなかった使われ方,想定外のトラヒック集中や変動などの予期せぬ事態にしばしばさらされ,極端な性能低下や機能停止が頻発しています.また,情報通信システムを最適に動作させ続けるためには,システムの構成要素(情報通信機器など)の状況に応じた適切な制御を実施する必要がありますが,超多数の構成要素の時々刻々と変化する状態を常に把握,管理するのはもはや不可能になっています.このような傾向が今後ますます加速すると考えられる中で,情報通信システムが信頼できる社会基盤であり続けるためには,従来よりも高い拡張性,適応性,頑健性を有する情報通信技術が必要不可欠です.
新しい情報通信技術の確立のため,当研究室では,生来的に拡張性,適応性,頑健性の高い,生物の様々な仕組みや機構,アルゴリズムを情報通信技術に応用する研究,すなわち, Bio-inspired ICT(Information and Communication Technology),Bio-ICTに取り組んでいます.例えば,アリの群れは,巣と餌場を結ぶ長さの違う二つの道のうち,より短い道を選んで行き来することが知られていますが,全体を俯瞰して指示を出すアリがいるわけではなく,個々のアリの独立した判断の結果,群れとしてより最適な振る舞いを達成しています.このような現象を「自己組織化」と言います.情報通信システムに自己組織化の原理を応用することで,集中制御なく自律分散的に望ましい構造,状態,制御を生み出すことができると考えられます.さらに,多数のアリが失われても群れが維持されるように,大規模同時故障が発生しても情報通信,情報処理を継続できる情報通信システムが実現できるかも知れません.また,最も身近でありながら最も複雑で神秘に満ちた組織である脳にも学ぶところがたくさんあります.ごく単純な計算素子であるニューロンが多数結合することによって,スーパーコンピュータを超える複雑な情報処理を圧倒的に小さいエネルギーで実施しているその原理や機構を抽出し,応用することで,超低消費電力でロバストな情報通信,情報処理が可能になると考えられます.
生命に学ぶ情報通信技術は,拡張性,適応性,頑健性や省エネに加え,情報管理のためのオーバヘッドが小さい,バグが入りにくくバグの影響を受けにくい,計算能力やメモリ容量の制限された組み込み機器にも導入しやすい,などの利点があります.一方で,情報通信システム全体としての機能は,厳密制御された従来型の技術と比較して,最適性や確実性,管理容易性,性能,制御速度の面で劣る可能性があります.しかし,今後新たに生じるありとあらゆる事象をあらかじめ想定してシステムを最適設計するのは不可能です.これからの新しい情報通信システムは,想定内の環境における性能を突き詰めるのではなく,想定外の事象に直面した場合にも,ある程度の性能を維持し,動作し続けられることが重要です.
なお,若宮研が推進するBio-ICTでは,生物の見かけの構造や振る舞いを単純に模倣するのではなく,その背景にある理論,すなわち数理モデルを研究対象にしています.数理モデルとして生命現象を捉えることによって,その本質や特性を正しく理解し,適切に解釈することで,情報通信システムへの効果的な応用が可能になると考えています.
若宮研では,比較的直近の個別の技術課題を解決することによってBio-ICTの実用性,有用性を示すだけでなく,生物学者,脳科学者,数学者,物理学者,工学者などとの協働のもとで,新たな数理モデルの構築や体系化,複数の数理モデルの相互作用の分析など,生物に学ぶ情報通信技術を新しい学問領域として確立していきます.